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考える生き方

books

極東ブログ の著者の著書を読んだ。

それまでブログの存在は知っていたし、twitter 経由でリンクから記事を読んだことも何度かあった。著者がアルファブロガーの1人だということも知っていた。著者のブログである記事の内容を覚えている。いま見返すと、2年前の記事だった。2年前の記事を何となく読んだだけで未だに記憶に留めているというのは、よくよく考えてみるとすごいことだ。

引用が長くなるので結論だけ紹介するが、この結びが強く印象に残っている。

そういう無名の社会人が困難な状況のなかで「公」を支えてくれるおかげで、私たちは生きていけるわけです。みなさんの、誰かもそうなります。

 だから、いつも思うのです、ありがとう。

4月から新社会人になる皆さんへ: 極東ブログ

本書は何か

たぶん何でもないの只の自伝だと著者なら言うかもしれない。著者は自分の生き方や過去を「からっぽの人生」だったと振り返っているが、本書を読む限り、そんな自虐するようなものでもないように思えた。普通の人の、普通の人生も、端からみると全然普通じゃないというのを端的に表しているのかもしれない。

著者が「からっぽ」だというのは、世の中で理想とされるようなレールに則った人生ではなかったということを指しているのかもしれない。それは社会的に承認されることのない生き方だったのかもしれない。著者の年齢が55歳とあるので、いまよりもずっとそういったレールから外れた生き方に理解がなかったり、厳しかった時代だと思う。

著者のブログのファンならば興味深く読めると思う。私は逆だけど、本書を読んで著者の人となりを知って rss reader に追加した方だ。ブログでもそうだけど、読みやすく、ユーモアを交え、押し付けがましくない著者の文体に好感がもてる。著者は否定しても、アルファブロガーというのはやはりちょっと普通じゃないと思うので、普通の人が普通の生きるための参考になるかは正直分からない。でも、誰彼もその人の人生であって、それが普通か普通でないかは、さして意味はないというのを考えさせられる気もする。

テーマが多い

著者の半生を綴ったものだからテーマが多い。仕事、家族、恋愛、難病、学問、社会、文化、人生、、、色んなことが書いてある。その分、著者の主張のようなものがあるわけではない。ブログの延長と言えばそうかもしれないが、本書は誰かのための、何かのためのものという目的では書かれていない。読者が読んで何かを考えるきっかけになるようなものだと思う。

私の中では、最もおもしろかったのは、第5章の「勉強して考えたこと」でした。著者の勉強に対する考え方や向き合ってきた姿勢が読み取れて興味深かった。

勉強する意味

著者の勉強する意味とはこうらしい。

私は、楽しいからだと思う。もちろん、私がそういうタイプの人だからというのはある。
(中略)
知るということ、それ自体が楽しい。子どものころは、ほとんどの人がそうだった。それをいくつになっても維持していくようにするのが勉強ではないかと思う。

著者と自分の共通する点が1つある。それは職を転々と変えてきたところだ。一般的に職を変えることはあまり良いことではないだろう。ただ、考えるという点において環境を変えるというのは大きな影響力をもつように思う。

考える習慣を持たない人に共通する問題点として 「無知の知」 ならぬ 「無知の無知」 があります。 自分が分かってないことを分かってない、 自分の浅慮では到底及ばない領域があることが全く想像できない、 いわば 「井の中の蛙」 状態ですね。

仙石浩明の日記: 「無知の無知」への 3ステップ

また別のブログの引用だけど、またしても新社会人向けに書かれた記事だw、なんだ?そんなことも分かってないのか自分、、、という気分だ。

長く同じ環境にいると人間は慣れる。慣れると、考えずに行動できるようになる。それ自体が悪いわけではないけど、人間は楽をする生きものだから無意識にものごとを深く考えないようになってしまうことがあるように思う。そのときにこの「無知の無知」が起こる気がする。私の場合、転職を繰り返すうちに、前の職場で通用した知識やスキルが次の職場では全く通用しないことが起こる。そんなときに強く実感する。自分は何も分かってなかったんだなぁと。

私にとっての、勉強する意味は2つある。

一つは、勉強してないと、この先生き残れないんじゃないかという不安がある。周りの人たちも当たり前のように勉強しているのを見てきたのでそこに疑問はないし、勉強せずに活躍している人もやはり見たことがない。もう一つは、分からないと悔しい。気持ち悪い。恥ずかしい。そういった負の感情へのコンプレックスがある。

著者の知りたいという動機とは純粋度が違う。違う分、業務の勉強なんかには向くけど、自然科学とか、興味がないものの勉強には食指が動かない。

国際性の中のエピソード

著者の大学時代の、留学生とのやり取りのエピソードでおもしろいものがあった。

「NO」と言えるのは、人間が対等なときだ。人間が人間であるなら、違う考えをもって表明するときは、「NO」という。

気さくな友だちには NO と言えても、そうじゃない知り合いとか、同僚とか、そういう人たちに NO と言いにくかったりするのは、そういった背景もあるんだなぁと省みてしまった。ここで言う対等というのは立場的なものじゃなくて人間関係なようにも思う。

リベラル・アーツという概念

この節がすごくおもしろかった。この節を読むだけで純粋に勉強する楽しみというのはこういうことなんだなと分かった気になる。

メカニカル・アーツの対立語としての wikipedia:リベラル・アーツ について述べている。この wikipedia の説明もおそらくは正しいのだろうけど、本書と比べて、その時代の背景や文化的な側面があまり書かれていない。辞書を引けばその定義が書いてある。そういうものだけど、何だかしっくりこない。

本書では、まず「リベラル」とは自由市民を指していて、自由市民とは、奴隷とは、枝芸とは、そういったあれを知るためにはこれを知る必要があって、背景が分かった上で最終的にはこうなんですと展開している。それはほんの上辺でしかないけど、体系的に学ぶというのはそういうことかとも思う。そして、それがおもしろいから勉強するんだなということも分かる。決して wikipedia を作るために勉強するわけではないんだ。

リベラル・アーツが何ものかが分かったところでその必要性を説く。きっと著者の講義を受けられるとしたらこんな感じで勉強する楽しさを教えてくれるように思う。

また余談だけど、art という単語から想像する日本語は「芸術」だろう。実際、その訳語が第一義だから正しいのだけど、辞書を引くと art という単語には「技術」や「技能」といった訳語も出てくる。ここで言う、リベラル・アーツの art というのは、徒弟訓練で学ぶ技能の体系のことを指すらしい。

"The Art of Computer Programming", "The Art of UNIX Programming" など、Art of と銘を打つコンピューター関係の書籍はちらほらある。それらのイメージを単純に私は「芸術」と捉えていたのだけど、なんだ技術体系の書籍だという見方もあるのかと再発見した次第だ。

終わりに

そして、やはり結びの言葉も良い。

こう言ってもいいのかもしれない。人生の敗北者であっても、貧しい生活でも、学ぶことで人生は豊かになる。

希望はある。

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